INTERVIEW

社員インタビュー

チームだからこそできる、
新たな形の中小企業支援がある。

平阪 靖規

平阪 靖規

代表取締役

中小企業診断士

新興IT企業の躍動感が原点

コンサルティングファームの創業者兼社長。こう聞くと、いかにも積極的で、学生時代からいつも前面に出ていた人物をイメージされるかもしれません。私の場合、そういうわけではありません。そもそも人見知りするタイプなので、異業種交流会のような大人数が集まる場では、いまだにそわそわしてしまいます。社会人生活も、コンサルタントとしてスタートしたわけではなく、IT企業の会社員が始まりでした。

ただ、大学生の頃から、自分で会社を作ることに対して漠然と憧れを抱いていました。

私が学部・大学院に在学していた1998年から2005年は、ちょうどITバブルが隆盛して衰退するまでの期間と重なっていて、良くも悪くも新興IT企業が目立っていた頃でした。楽天のジャスダック上場は2000年、ライブドアのフジテレビ買収が世間を騒がせたのは2005年です。テレビ越しに一連の騒動と躍動を目の当たりにして、ああ、自分の会社を作れば、自分のやりたいビジネスをできて、お金も稼げるんだな、面白そうだな、と率直に思ったのを覚えています。ネガティブな報道もたくさんありましたが、新しいものを自分で作り上げるのが好きな性分なので、渦中の企業や社長の姿は魅力的に映りました。

電子情報工学科に在学していたことも影響したかもしれません。ちなみに、先見の明があったわけではなく、高校の担任の先生から勧められただけです。入学当初は興味もなく、他にやりたいことがあったので、ろくに勉強していませんでした。何をやっていたか? 漫才です。本気でお笑いの世界を目指していました。

大学時代の後半に差し掛かってから、やっと真面目に勉強を始めました。早朝は学費を稼ぐために新聞配達のアルバイト、日中は毎日5限まで全コマ授業、合間を縫って図書館でプログラミングの練習…これと決めたら全力を注ぎこむタイプなので、常に動き回る毎日です。この頃になると、ITって面白いと素直に思っていました。

東京で就職することも決めていました。当時住んでいた京都では得られる情報量が少なすぎて、世の中の流れについていけない。変化の激しいIT業界ではなおさらです。夜行バスで往復しながら就職活動を行い、最終的に、東京のシステムインテグレーター(SIer)に採用されました。

振り返ってみると、この頃に感じたベンチャーのダイナミズムが、大学卒業から現在に至るまで、私の原風景となっている気がします。

1度は独立を断念、2年後に再挑戦

2005年、東京のSIerに就職し、会社員生活が始まりました。

上場企業のグループ会社で、社員は200人くらいでした。Tシャツで仕事して、飲み会中にお客さんから電話があれば、文句を言いながらもみんなその場でパソコンを広げ、対応してしまうようなところです。ベンチャーに近い雰囲気で、起業を望む自分には居心地のよい場所でした。

ちなみに、社長の私がそんな会社にいたせいか、コムラッドファームジャパン(CFJ)も従業員の裁量権は大きく、会社に属しながら自由に中小企業診断士(診断士)として活動できます。自由な風土の会社にいたから、自分の会社もそうなったのでしょう。

プログラミングやエンジニアリングに特化した集団に混ざれたことも刺激になりました。技術マニアのような人たちと同じ分野で、自分が尖った存在になるのは無理。強みを発揮できる領域は、マネジメントではないかと思うようになりました。実際、プロジェクトマネージャーを任される機会の方が多かったです。

転機は入社5年目です。転勤して福岡で働いている間に、自分の所属していた会社が親会社と合併しました。数百人だった社員は数万人に肥大化し、会社員として働くならここしかない、と断言できるくらい馴染んでいた企業風土がすっかり変わってしまった。アイデンティティを失った感覚でした。このまま働き続ける意味を考えてしまい、そのうちに、会社を作りたいという気持ちが再燃したのです。いてもたってもいられず、2010年12月に辞表を提出しました。

技術と管理の両方を経験して、多少、自分の仕事に自信を持てていたことも勢いに拍車をかけたと思います。今から思えば、誰がターゲットでどういうプロダクトを開発して、というドメインの基本を決めずに、ただ「会社を作りたい、独立したい」と言っていたわけで、まあ、危ない状態でした。

その辺を見透かされたのか、すぐに東京本社から呼び出しがありました。所属していた会社の社長、採用面接でお世話になった専務、常務そろい踏みで、焼き肉屋で説教です。そんな甘い考えでいったい何をするんだ、それでやっていけると思っているのか、と。上等なお店だったのですが、お肉も飲み物も全く喉を通りません(笑)。

30歳の会社員ですから、重役たちにそこまで言われて辞める気概は、さすがにありません。翌日に福岡から内線をかけて、辞表を取り下げました。

しかし、一度は決めたことですから、簡単には収まらない。心がくすぶります。そのもやもやをぶつけるように、中小企業診断士の勉強を始めました。さらに、資格取得後1年間、本業の傍ら研究会やマスターコースなどに参加し、色々な先輩診断士をお手伝いさせていただきながら、診断士の仕事とはどういうものなのかを把握しました。前回は正直、勢いが先行し、何を仕事にして独立するのか見通せていなかったので、今回は現実をよく見極めようと思ったのです。

公的機関の経営相談窓口という、安定した業務に採用されたことも後押しとなりました。会社員という社会的地位を捨てるのは、やはり、勇気がいります。経済的な下支えは、一歩を踏み出すために必要でした。

周囲の説得で独立を諦めてから2年後、再び辞意を伝えました。マネジメント分野を掘り下げ、コンサルティングを商品にするという方向性や、目先の業務について話すと、「いつかはこういう日が来ると思っていた。がんばって」と背中を押してくれました。ありがたかったです。私も、そのように社員の背中を押してあげられる存在であるよう、心がけています。

1度は独立を断念、2年後に再挑戦 画像

そして、独立へ

2013年3月、会社を退職し、翌月にひらさか中小企業診断士事務所を開設しました。

公的機関の経営相談窓口の仕事が独立の後押しになったことは話しました。ところが、いざ独立してからは、逆に悩みのタネになります。週5日、朝から夕方まで窓口にいる。固定シフト・固定給なので、収入は上がらない。単純に転職したのと同じような状態でした。

年間100社くらい支援させていただいたので、確かに実力は付きました。委託契約なので副業なども自由です。しかし、何かが違う。個別に仕事の依頼をいただいても、日中は時間を取れないので、十分に対応できません。また、2年目以降も基本的な業務内容は変わらないので、新たなスキルアップを期待しづらい。せっかく独立して可能性を拡げたのだから、他にもやれることがあるのではないかと考えていました。

結局、契約を更新せず、1年で公的機関の仕事を辞めました。なにか勝算があったわけではありません。賭けです。2014年3月のことでした。

幸い、賭けには勝ちました。最初の3か月間は仕事をなかなか取れなかったのですが、7月初旬に一気に3件の仕事をいただいて、息を吹き返しました。妻には、会社を辞める時、毎月一定の金額を家計に入れると約束していたので、ほっとした記憶があります。

個人の限界と「寂しさ」を知る

一方で、個人の診断士としての限界も見えてきました。人手が足りない。何をするにも自分一人しかいないというのは、こんなにも不便なものかと思いました。

たとえば、事業者様にコンサルティングサービスを提供しようと思ったら、営業、アポ取り、プレゼン資料作成、訪問、アフターフォローなど、すべて自分で行います。見積書や請求書、価格表も作らなければいけない。電話対応やメールへの返信、報告書作りもしなきゃいけない。支援先に伺ってヒアリングすれば、日中に事務作業を進められないので、帰ってから睡眠時間を削りつつ最低限のタスクをこなします。

自分の責任と力で稼いでいる感覚は心地よいですし、楽しいです。しかし、ふと、これをあと何年続けるのだろう? と思う瞬間がありました。コンサルティングは、お客さんに自分の稼働時間を提供する商売です。1人で提供できるアウトプットはどう頑張っても1人分であり、質・量・幅ともどこかで頭打ちになります。当然です、1人しかいないのですから。

もちろん、インプット・アウトプットを通じて力は付きます。しかし、対応できる業種・ジャンルはそう簡単に広げられません。しかも、立ち止まったら年収はゼロ。そういう生活を30年、場合によっては40年近く続けるわけです。単独でやっていくというのはそういうことです。実際、「賭け」から1年程度で、自分1人で稼ぎ出せる金額の限界は見え始めていました。

もう1つ、これは私の感情的な側面なのですが、朝から晩まで一人で黙々と仕事をするのに馴染めなかった。これでいて人見知りの寂しがり屋なので、意外に深刻な問題でした。会社勤めの妻の帰りを心待ちにしている自分に気づいたとき、我ながら情けないというか、嫌になりました。まったく予想していなかった独立の副作用でした。

より大きい仕事をするためにも、自己満足のためにも、組織が必要なのではないか。組織を抜けた私が組織の必要性を説くのも妙な話ですが、会社員・個人事業の両方を経験したからこそ、気付けたことです。法人化して、組織でカバーできる範囲を広げ、個人の時間の切り売りから脱しなければ、目指す水準には到達できないと感じました。

2014年10月、ひらさか中小企業診断士事務所を畳み、CFJを立ち上げました。今年で7年目。人間なら小学2年生です。まだまだひよっこですが、ひよっこなりに悩み、考えながら、今も走り続けているところです。

社員の自己満足が生む好循環

すこし、私の会社について話をさせて下さい。

私たちの理念は、志ある経営者・想いを抱いて進む人たちに寄り添い、支え、応援し、新しい価値を創造することです。その実現のためには、社員それぞれが得意分野を持つとともに、それらを最大限発揮できる環境が不可欠です。

当社は社員の働き方について、「自己満足でもいいじゃない」というスローガンを掲げています。当然、ネガティブな意味での「自己満」ではありません。社員がCFJを使って成し遂げたいものを、それぞれの水準で実現すればいいという意味です。

既存事業を極めたい人、新規事業を立ち上げたい人。自分が納得するまで思い切り働きたい人、プライベートを充実させたい人。全員がそれぞれの水準で満足して働くのが最良であり、ハイパフォーマンスの源泉だと思っています。いわば「各自満足」です。そして、そのための場を提供することが、社長である私のミッションです。

コンサルティングの質は、結局、ヒトに依存するところが大きい。だから私は、顧客満足と同等の重みで、社員の「自己満足」を大切にします。彼らの期待に見合う器を持ち続けられるかが、私の勝負です。その勝負に負けたとき、お客さんも社員も離れていくものと思っています。

私は、一緒に仲間として働きたいとおっしゃってくれる方に、必ず尋ねる質問があります。「あなたは当社を使って何をしたいですか、どうなりたいですか」。ご自身のやりたいことが分からなければ、実現のための環境を提供できません。学歴や職歴など、今までやってきたことより、これからのことを聞きたい。

実際、当社には、社会人生活になじめず、不安定な生活を長く続けていた社員もいます。今では欠かせない戦力です。

CFJでは、理想的なコンサルタントはT字型人材であると考えています。Tの横棒は中小企業支援の基礎となる知識・スキル・経験、縦棒は専門性です。私が特にお聞きしたいのは、縦棒の方です。身に付けてある必要はありません。目指す縦棒の場所と深さをお聞きしたいのです。何に、どれだけの専門性を見出すか決められるのは、ご自身だけだからです。

ファイナンス、IT、マーケティングなど、さまざまな専門性を持った人材が、サービス業、製造業、小売業など業種を横断してサービスを展開する。さらにその先では、私の専門分野でもあるITやデータ活用を組み合わせ、単なる問題解決を超えた、成長に資するサービスを展開したいと考えています。そこをCFJの理想とすれば、今はまだ50点未満です。だからこそ、ともに歩んでくれる自立したコンサルタントを仲間に迎え入れたい。

もしご興味を持っていただけたら、ぜひ、「社長と面接」ではなく、「平阪と話したい」という気持ちでいらっしゃっていただければと思います。私が社長だということは忘れて、ありのままのお話を聞かせて下さい。いつでも歓迎致します。

取材日:2020年9月20日

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